WRC50の名場面、あなたは何を選びますか? – RALLYPLUS.NET ラリープラス

WRC50の名場面、あなたは何を選びますか?

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皆さん、こんにちは!
ラリープラスやラリーカーズ誌で翻訳や取材を担当している、けいこです。
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さて、FIA世界ラリー選手権WRCは1973年に各国のイベントが世界選手権としてシリーズ化され、2022年で50周年を迎えます。それを記念して、WRC50の名場面が選ばれ、一般投票も受け付けていますが、各国のジャーナリストや関係者がその中からトップ5を選ぶという苦行(笑)のような依頼をwrc.comを運営するWRCプロモーターからいただき、編集部の重鎮たちと相談のうえ、下記を選ばせていただきました。本当はもっとたくさん選びたかったのですが……。
ちなみにwrc.comに掲載されたものはこちらです。
https://www.wrc.com/en/news/2022/wrc-best-moments/wrc-50-experts-view-keiko-ito/

1974年 ランチア、ストラトスが登場
それまで一般車で競技が行われていたラリー。ランチア・ストラトスこそが初めてラリーのために設計された車であり、ローンチ後、3連覇を達成し、WRCの方向性に革命をもたらしました。ラリープラスの姉妹誌に「ラリーカーズ」という雑誌があり、1冊につき1台のヒストリックラリーカーを詳細に取り上げていますが、その創刊号はもちろんランチア・ストラトスでなければならなかったのです。

1981年 アウディがクワトロでスウェーデン・ラリーを制する

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40年以上にわたって多くのラリーカーが作られてきましたが、4WD+ターボエンジンという勝利の組み合わせは、当時から変わることがなく、いまでも続いています。

1981年 ミッシェル・ムートンがサンレモラリーで女性ドライバーとして初優勝を飾る

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ジェンダーの問題はさておき……WRCがいまよりずっと長くて過酷だった時代に、彼女ほど世界選手権のラリーで優勝し、タイトルに近づいた女性は誰も他にいないわけです。そのために私は彼女を特別に尊敬します。

1990年 カルロス・サインツ、北欧以外のドライバーとして初めて1000湖ラリーを制覇

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……そしてそれは、トヨタ・セリカST165に乗って! 1989年に三菱がいくつかのイベントで優勝し、スバルも速さを見せてきた時代は日本の自動車メーカーのグループAカーがWRCで強くなった時代の幕開けでした。そして1990年にカルロス・サインツがドライバーズタイトルを獲得したことで、日本車でもチャンピオンを獲得できることを世界に証明できましたし、1993年から1999年まで様々な日本メーカーがマニュファクチャラーズタイトルも連覇することになる最初の一歩でした。

2021年 20歳のカッレ・ロバンペラ、ラリー・エストニアで優勝

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ヤリ-マティ・ラトバラがスウェーデンで優勝し、22歳でWRC最年少優勝者となるなど、多くの若手ドライバーがイベントで優勝してその速さと自身の価値を証明しましたが、カッレのように速さと安定感、冷静さを兼ね備えたドライバーは見たことがありません。今後ももっと多くの優勝が期待されますね!

特筆すべきその他のこと

Naoki Kobayashi


私たち日本人にとって、2004年に初開催されたラリージャパンこそが私たちに足りなかった母国ラリーという重大なイベントで、本当の転機だったのだと思います。1990年代には日本のマニュファクチャラーがタイトルを獲得していましたが、日本における複雑な状況を考えると、特にラリー関係者の多くは、ラリージャパンが実現するかどうか少し懐疑的だった部分もあったのだと思います。しかしイベントはうまくいきました。帯広駅前で行われたセレモニアルスタートに集まった、お気に入りのラリーカーやドライバーなどを見に集まった大勢の人たちの光景は、今でも私たちの記憶に鮮烈に残っています。しかし、残念ながら日本のマニュファクチャラーが撤退してしまったため、2010年に開催が中止されました。

そして2022年、ラリージャパンは豊田市という新たな地で、不死鳥のように再び蘇ったのです。今回もまた、サービスパークにどれだけの人が集まるのか、私たちは少し懐疑的なところがありました。ところが、サービスパークには多くのファンが訪れ、その熱気に驚かされました。そして、勝田貴元選手が表彰台に上ったことは、私たちにとっても大きな励みになりました。私たちはラリージャパンがこれからも末永く成功していくことを願っています。



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